• 劇場であり語り合う場である遠いハウス

    小柳 晴生

     今回の読書会の「言い出しっぺ」は山本美加さんである。山本さんにとってこの読書会は、二つの点で意味深いものである。かつて親が暮らした田舎の家を手直しして、何らかの活動の場にしたいというのが年来の夢であったという。その実現の端緒として、読書会を計画したようである。もう一つは、来春定年という節目を迎える。この先の身の振り方を考えざるを得ない時期でもあるのだろう。
     声をかけていただいことがうれしくて、二つ返事で参加を了解したものの、考えてみればこれまで読書会をやったことも参加したこともない。どんなやり方でやったらいいのか、皆目見当もつかない。と思ったが古い記憶をたどってみたら、いくつかやっていたことを思い出した。20代初めごろにマルクスの著作の読書会に参加したり、30代後半に英語の専門書を数人で読もうとしたが、いずれも長続きしなかった。
     前者は10回ほど続いたはずだが、何を話し合ったかも定かではない。後者は語学力不足で潰(つい)えた。両者とも取り上げた本の荷が重すぎて、背伸びをしても読みこなせなかったのだろう。ということで、読書会にはあまりいいイメージがない。
     ただ50代の時、大学院に授業で、何人かの心理臨床家を取り上げた本の中から、H.S.サリバンの業績を紹介した章を15回にわたって読み合わせしたことがある。この時はわからない言葉や概念などを学生に調べてきてもらったりして、思いがけず実りのある時間になったと記憶している。今まで怪しい知識しか持っていなかったが、サリバンの思索の一端についてかなり理解が深まった。

     ところで、私自身、何を読書会に求めているのだろうか。ここのところ、世の中の動きが速く複雑すぎて、何が起きているのか、どんな世界を生きているのか定位できない感じが強くなっている。深い霧に覆われて、視界不良という感じである。これまでも見えていたとは言い難いのだが。
     視界不良感は、年を取ってきたせいかもしれないし、同時代というのはいつも混とんとして捉えきれないものなのかもしれない。それでも青春時代を過ごした1960年代、青年期の70年代の日本には右肩上がりの方向性があったように感じていた。それがよかったかどうかは検証が必要だが。2000年に入ってから、私たちがどこに向かおうとしているのか、どこに連れていかれるのかよくわからないという混迷は強くなっている。
     こういう気分でいると、画家ポール・ゴーギャン(1848~1903)の絵の長いタイトル「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」という言葉が気にかかってくる。
     世の中では、今後ITが一層生活を便利にしてくれると喧伝されている。家に帰った時、声をかけるだけでライティングなど多くの電化製品が操作できるという。これはほんの入り口に過ぎないのであろう。話すと瞬時に翻訳され、英語ができなくても会話が成り立つ時代もそう遠くないかもしれない。
     しかし、この便利さは電気で支えられている。8年前の東北での地震による津波や原発事故、近くではこの秋の3回におよぶ関東・東北の台風や水害でも露呈したように、あるのが当たり前と思っている電気や水が、思ったよりもろいことを思い知らされた。どんな便利な電化製品も、電気がなければただのがれきに過ぎない。
     あるタワーマンションは、地下の電気設備が水没しエレベーターやトイレが使えなくなり、「高層ビル難民」と化してしまった。一瞬にして何世代も前の生活の引き戻されてしまうのである。便利になればなるほど、日常と非常時の落差は大きくなる。
     私たちは気がつかないうちに、だれもが「高層マンションの住人」になったと言ってもいいのではないだろうか。日ごろ便利さは享受していても、背後に大きな漠然とした不安を抱え込むことになったのである。目に見えない不安を抱えながらどう生きるかという課題が立ちはだかってきたのである。
     しかもここ最近の度重なる自然災害は、産業革命以来200年に及ぶエネルギーの多消費による地球温暖化による気候変動の影響とも言われている。歴史を振り返るといつの時代も苦難に満ちているが、私たちの生き方が自らの生活の基盤を脅かすという構図になっている。これは人類が初めて遭遇する事態ではないだろうか。
     今後、ITはおそらく人型ロボットという形でも立ち現われるであろう。今はかわいい犬などのペットや人としてだが、どんどんより人に近づき、ある能力においては人をはるかに凌ぐということになるだろう。
     2次元ではすでに人工的に創られたアイドルが登場しているし、その3次元化も試みられている。すでにアニメで起きてるように、実際存在しない人に熱い恋心を抱くことになるのだろう。こうなると、ポール・ゴーギャンの「我々は何者なのか」という問いが、大きく浮かび上がってくる。
     こうしたテクノロジーの発展(?)が私たちをどこに連れて行こうとしているのかという命題がつきつけられてくる。テクノロジーの発展は人間が創り出しているというより、テクノロジー自体が勝手に自己増殖しているように感じられる。
     1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、地球を外から眺めることができるようになった。当時は、夜の都会の光が成長の象徴のように誇らしく感じられた。
     それから60年を経て、都会の明かりはますます強く広がりを増したが、最近はそれが地球の「がん」のように見えてくる。道路や鉄道、電線という血管を幾筋も作り、周辺から栄養を取りこみ、次々と立ち上がる高層ビルは「がんの増殖」に見える。「がん」がいずれ宿主である人間を死に至らしめるように、テクノロジーがそうならない保証は何もない。

     私は、今回の読書会に、こうした不安を抱えるようになった現代をどう生きたらいいのかについて、しばし立ちどまって思いを凝らす時間になればと思っている。答えが容易に見つかるとは思えないし、これまでもそしてこれからもうろたえながら生きてゆくことには変わりがないだろうが。
     来春70歳を迎えることになり、残された時間もそう多くはない。6年前に病を得て、日々の生活に何かと制約や不安が付きまとう。幸いやりたいことはかなり実現して、思い残すことはそんなにないが、残りの時間をどんなふうに使ったら自分が納得するのだろうかとはよく考える。
     と言いつつかなりの時間を睡眠に充て、酒を飲んで酔っている時間も長い。昔から「酔生夢死」という言葉があるが、それにかなり近い生活になっている。有用さや効率的という価値観からは遠い生活になりつつあるが、それでいいと思っている。この読書会も、思索や知的な会話を楽しむものではあっても、役に立つということを目指そうとは思っていない。
     ところで村上春樹は、つい最近(2019年10月13日)イタリアの文学賞の受賞講演で、いつの時代も物語の果たす役割は変わらないとし、「魂の暗闇を照らす物語というささやかなかがり火が必要とされている。それはおそらく小説にしかできない種類の明かりです」と語っている。
     活字による本自体が、ローテク化しつつある。その本を集まって読もうというのである。村上の言うように「魂の暗闇を照らすささやかなかがり火」とまではなかなか思えない。ミサイルに竹やりで立ち向かうような感が否めないが、自己満足であってもいいのではないかと思っている。

     今回の3回のクールは、恥ずかしながら拙著「ひきこもる小さな哲学者たちへ」NHK生活人新書(2002)を取り上げてくれるという。出版してからそろそろ20年になろうとしている。私としては30年後に読まれても色あせないものをと思って書いたが、歴史の審判を受ける貴重な機会をいただいたと思っている。
     私自身は読書家ではないし、小説の類はほとんど読まない。社会評論的なものに偏っている。例えばかつては山崎正和や岸田秀、近くでは内田樹などを読んだが、ここのところそれに該当する人は見つかっていない。この先読書会が続くとしたら、他の人がどんな本を挙げてくるのかも楽しみである。

     読書会のお誘いとしては、タイトルのあるようにはなはだ心もとないものだが、趣旨に賛同する人があればご参加いただければ幸いである。

                         (2019年10月29日)

      追 記

     10月26日に、「人型ロボット」の部分を書いて床についた。FMラジオをつけっぱなしで寝入ってしまったのだが、夜10時からのラジオドラマが耳に入り目が覚めた。東多江子(ひがしたえこ)作の「アンちゃんといっしょ~ 未来の家族」というタイトルだった。
     時は令和10年、不登校気味の高校生の息子に、父親が人型アンドロイドの家庭教師を買ってくるという話である。途中ちょっとであるがカウンセラーも登場したりする。アンドロイドが、家族にどんな波紋を生み出すのかという物語である。
     あまりのタイミングの良さに我ながら驚いている。機会があれば他の人にも聞いてほしいと方策を考えた。聞き逃しサービス(放送後一週間はインターネットで聞ける)を録音しようかとか。しかし、レコーダーを持っていないのでこの機会に買おうかと考えた。
     だめもとでユーチューブにアップされていないかと探したら、放送後3日しか経っていないのに既にあった。これまで書いてきたことと矛盾するが、何と便利な世の中になったことかとあらためて思ったことである。
     もし可能なら、第1回目に参加するまでに聞いていただければと思っている。アクセスの方法はユーチューブで「FMシアター」を検索し、さらに「アンちゃんといっしょ~ 未来の家族」で出てくる。50分の番組なので4つに分かれているのが不便だが。
     私の場合は寝ながら聞いたのでほど良いテンポだったが、今の私たちにとって50分ラジオドラマに耳を傾けるのはむつかしい。うまく心のスピードのあう時間が見つかることを願っている。